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新潟市 潟のデジタル博物館

潟のくらし文化

越後平野での暮らし~自然と向き合ってきた低湿地での生活~

苗を積んできた舟
苗を積んできた舟 所蔵:齋藤文夫氏 撮影:石山与五栄門氏 昭和32年

 越後平野は、縄文時代に原形ができました。縄文時代の温暖化に伴う海水面の上昇によって海に覆われた旧平野に、信濃川や阿賀野川などが運ぶ大量の土砂が堆積し、やがて低くて平らな平野となったのが越後平野です。平野の前面には砂丘が形成され、その内側は潟湖(せきこ)が多く残る状態でした。砂丘からは縄文時代の遺跡も見つかり、土器のほかに石槍や石錘(おもり)が出土されていることから、狩猟や漁をしながら生活していたことが分かります。
 戦国時代末期から江戸時代前期にかけて、信濃川、阿賀野川の下流域の開発が進み、多くの村が生まれました。人々が低湿地に定住するようになり、湿地や水辺を開墾して田畑にする新田開発が行われるようになりました。しかし、標高差が無く水はけの悪い低湿地では常に水が溜まりやすく、湛水、洪水などの水害に悩まされながら稲作を行いました。
 その一方で、潟周辺では、潟底の土は田んぼのかさ上げや肥料として、潟の魚、水鳥や植物などは食用として、ヨシやマコモは屋根材や燃料として利用するなどしました。
 潟周辺での暮らしは「水との闘い」と同時に「水を利用した生活」でもありました。

潟の食~潟の恵みを享受する~

囲炉裏の煙でいぶされる魚 ビュー福島潟 提供
囲炉裏の煙でいぶされる魚 ビュー福島潟 提供

 潟周辺に住む人々は、潟で捕れる魚を日々の糧としていました。代表的なものとして、フナ、ドジョウ、ナマズ、コイなどが挙げられます。
 これらの魚の調理方法として一例をあげると、竹串に刺し、巻きわらに刺して囲炉裏の煙でいぶし、しょうゆや砂糖味噌を付けたりしていました。また、「コイやフナを食べれば乳の出が良くなる」といわれていたため、産後の女性がいる家では、これらの魚を甘露煮や味噌汁にして食べられていました。
 魚以外でも、水鳥や潟に生息する植物も同じように日々の糧とされていました。
 潟へ冬季に飛来する水鳥は、身が締まり、小さければ小さい鳥ほど美味しいといわれ、捕獲したカモやバンは正月料理などの吸い物として振る舞われていました。
 潟に生息する植物では、オニバスは葉柄を間引きして味噌汁の具に、ハスの根はレンコンとして料理の材料になりました。また、子どもたちのおやつとして、ハスの実は生のまま、ヒシの実は、殻ごと茹でて殻を割って実を出して食べられていました。
 このように潟から受けるさまざまな恵みにより、想像よりはるかに豊かな食生活、食文化を築いていたといえるでしょう。

潟の舟~潟では舟一艘あれば生きていけた~

カモカゴを運ぶ舟
カモカゴを運ぶ舟 所蔵:齋藤文夫氏 撮影:石山与五栄門氏 昭和32年1月

 水はけの悪い低湿地に住む人々にとって舟は必要不可欠なものでした。男たちは舟を漕いで潟で魚を捕る、女たちも舟を操って潟の中に生えている植物を採るために利用していました。また、舟に乗り潟でとれたものを市(いち)に売りに行ったりもしていました。出掛ける際の交通手段としても利用していたのです。

舟で稲を運ぶ少年
舟で稲を運ぶ少年 所蔵:齋藤文夫氏 撮影:齋藤文夫氏 昭和35年9月

 農業の面でも、舟はとても重要でした。農作業をする人々の移動手段としてはもちろんのこと、運搬用具として田植え用の苗や刈り取った稲、肥料になる潟底の土などを運ぶ、現在のトラックのような役割も果たしました。
 このようなことからも、舟は人々の生活や潟での経済活動においても重要であったことがわかります。「潟では舟一艘あれば生きていけた」まさにその言葉がすべてを物語っているといえるでしょう。

遊び~水に慣れ親しんだ子どもたち~

 子どもたちは舟を遊び道具としても使いました。舟に乗って潟の真ん中まで行き、舟底を引っくり返して飛び込み台にしたそうです。
 昔、鳥屋野潟で遊んだ人々は「潟の中央から向こう岸まで泳ぎきらないと仲間から一人前として認められなかった」と話してくれました。遊びながら泳ぎを覚える、舟は大人だけではなく子どもたちが成長する大事な遊び道具でもありました。

潟の伝説~潟には大亀や大蛇がすんでいた~

 潟周辺の集落には水に関わる生き物の伝説が多く残っています。潟に大亀や大蛇がすむとされ、勝手に潟を埋め立たり、無断で魚を捕ろうとすると罰が当たるといわれていました。人々の水に対する畏敬の念がうかがえます。
 いくつかの代表的な伝説をあげると、「鳥屋野潟」には大きな亀が住んでいて橋を架けようとすると邪魔をしたという伝説、「福島潟」には長者の娘のお福が恋い焦がれたお坊さん追いかけたうえ、共に紫雲寺潟に落ち大蛇と化した「お福大蛇」が福島潟に移ってきたという伝説、佐潟には海賊船が埋まっているという伝説、今はなくなった旧鎧潟には、源義家が地元の豪族、黒鳥兵衛(くろとりのひょうえ)を討つためにやって来たとき、鎧を潟で洗ったので「鎧潟」と名付けられた伝説など、このほかにも数多くの伝説が残っています。

参考文献

・越後平野での暮らし
新潟市 2011『新潟砂丘』新潟歴史双書6、P22~P24
新潟市歴史博物館 2009『蒲原平野の20世紀』
新潟市歴史博物館 2012『開墾の技術史』
新潟市ホームページ「新潟市の歴史」(参照2015-3-16)
・潟の食
新潟市史編さん民俗部会 1991『新潟市史』資料編10 民俗1、P172~P175
新潟市史編さん民俗部会 1994『新潟市史』資料編11 民俗2、P49、P159~162
豊栄市民俗調査会 1999『豊栄市史』民俗編、P432
巻町 1992『巻町史』資料編民俗、P334
農山漁村文化協会 1985『聞き書 新潟の食事』、P14~P24
・潟の舟
新潟市歴史博物館 2007年『舟と船大工』、P47~P58
・潟の伝説
新潟市史編さん民俗部会 1991『新潟市史』資料編10 民俗1、P733~P750
新潟市史編さん民俗部会 1994『新潟市史』資料編11 民俗2、P530~P550
豊栄市民俗調査会 1999『豊栄市史』民俗編、P531~P536
【聞き取り】(敬称略)
2014年2月18日 石黒伸夫(西区赤塚)
2014年2月25日 齋藤一雄(西蒲区松野尾)
2014年3月3日 佐藤了(北区前新田)
2014年3月17日 増井勝弘(中央区清五郎)
2014年3月17日 小林正芳(中央区清五郎)