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新潟市 潟のデジタル博物館

潟の開発の歴史

越後平野の低湿地~「ヤチ」と「ヤマ」~

 弥彦のご祭神、天香山命(あめのかぐやまのみこと)が越後に来て弥彦山に登り、四方を遠望した際、当時の越後平野の様子を「水沼の蒲原(みずぬまのがまはら)」と称したという話があります。古代から中世中頃まで、越後平野のほとんどの地域は、この地方の方言で低湿地をさす「ヤチ」であったと考えられます。人々はこの湛水部分を伴う沼地に近い環境の中で、洪水に見舞われることのない砂丘上に住居を構え、舟で移動して耕作していました。
 戦国時代中期頃においても、越後平野の開発は洪水の難を避けることのできる微高地に限られました。人々は「ヤマ」と呼ばれる自然堤防や砂丘上に集落をつくり、囲い土手をめぐらし、洪水から家と田畑を守るようにしていました。

越後平野の開発の始まり~米の石高を増やすために~

西蒲原郡旧藩領地分布図

 越後平野の開発が急速に推し進められるようになったのは戦国時代末期から江戸時代前期にかけてです。越後平野は新発田藩、長岡藩、村上藩、その他幕府直轄領を含めた多くの藩が領地としており、利害が交錯していたため、開発が思うように進まない状況でした。しかし、6万石の領地のほとんどが水害常襲地帯にあった新発田藩が、その石高を増やすべく、越後平野の開発に着手したのです。
 このような洪水の氾濫原(はんらんげん)注1)を開発するためにまず必要だったことは、氾濫原の水抜きのための瀬替え(せがえ)注2)に始まり、潟の干拓を目的とした分水路を整備することでした。これにより、水田の面積が増加し更には米の石高を増やすことができたのです。

図1:西蒲原郡旧藩領地分布図(幕末)「西蒲原土地改良史 上巻」より作成
 図の示すとおり、藩の領域は複雑でした。また、鎧潟から田潟、大潟へ流れこむ早通川の右岸一帯は、洪水時における遊水池でした。ここは幕府によって開発が禁止されていた区域であり、「御封印野」と呼ばれました。

近世に至る越後平野の開発

内野新川立体交差
写真:現在の内野新川立体交差

 近世中期以降、越後平野では大規模な土木工事を伴う新田開発が行われました。その代表的な大型開発の一つに、海岸砂丘の後背湿地に広がる紫雲寺潟(塩津潟)の開発があげられます。享保15(1730)年に開削された松ヶ崎堀割(まつがさきほりわり)は、この紫雲寺潟の干拓にともない、水害が激化する地域に対する補償工事でしたが、この堀割は、翌年の増水で破壊されて阿賀野川の本流となりました。これが現在の阿賀野川河口になります。
 また、文政3年(1820年)に開削された内野新川は、大潟(おおがた)、田潟(たがた)、鎧潟(よろいがた)周辺の排水と新田開発が目的でした。この三潟地域は雨が降ると、流れ出るところのないまま溜まり水となっており、大雨の時などは、田畑までこの「悪水」が押し寄せ、作物に大きな被害をもたらしました。何度も襲ってくる水害から逃れるためには三潟の悪水を日本海に放出するしかありませんでした。この新川が開削されたことにより、潟縁が徐々に水田化されていきました。

近代から現代の越後平野~“乾いた”田んぼの実現~

 近代に入り、米を増産するため、蒸気機関による動力排水機場の設置といった、近代的な技術が活発に導入されるようになっていきました。しかし、越後平野で抜本的な信濃川治水工事が始まったのは、明治29年(1896年)7月に起きた「横田切れ」と呼ばれる大水害の後のことです。この横田切れを契機に大河津分水路が作られ、洪水は激減し、越後平野では用排水路の整備や潟の開墾などの土地改良事業が本格化していきました。その後、日中戦争や太平洋戦争などにより、労力の不足による食糧不足が深刻化していったことから、国家が直接各地の土地改良事業に資金を投入し、農業基盤を整備するようになっていきました。
 第2次世界大戦後の食糧増産政策のもと、昭和23年(1948年)には栗ノ木排水機場注3)、昭和28年(1953年)には新川右岸排水機場と、国・県営の大排水機場が次々と運転を開始しました。これに合わせて耕地整理・土地改良が実施され、1960年代には土地造成がなされました。
 越後平野最後の大潟湖であった鎧潟が昭和43年に全面干拓され、福島潟の約半分が昭和50年(1975年)に干拓されるなど、大規模な干拓事業が行われたのもこの頃です。これらは従来の潟縁への進出とは異なる、近代的な土木技術を活用したものであり、かつて越後平野の特徴的な景観のひとつであった多くの潟やヤチは、鳥屋野潟、福島潟などのごく少数の潟を残し、用排水路の整備された耕地へとかわっていったのです。
 食の多様化によって米余りが深刻化し、日本の農政が減反政策へと大きく切り替わったのは昭和45年頃のことです。この政策転換により、水田は水稲以外の作物への転作が図られ、その一方で、住宅地、商業地、公共用地に転用されるなど都市化が進展しました。
 現在は農業生産向上の為に圃場整備が進められると共に、冬季湛水や田んぼダム、環境用水の導入を通じた水質浄化や生物多様性の確保など、環境保全型農業の多面的機能への取り組みによって、農業農地のさまざまな方向性が模索されています。

栗ノ木排水機場/写真中:昔の農作業の様子/現在の稲刈り風景
写真左:栗ノ木排水機場 所蔵:亀田郷土地改良区 / 写真中:昔の農作業の様子  撮影:本間喜八氏 所蔵:亀田郷土地改良区 / 写真右:現在の稲刈り風景

注1) 氾濫原(はんらんげん):洪水時に、流水が河道などからあふれ出て、氾濫する範囲の平野部分のこと。すなわち谷底平野・扇状地・沖積平野・三角州などのうちで洪水に浸水する範囲全部を指す。
注2) 瀬替え(せがえ):新しく河道を掘削して、河川を付け替える工事のこと。
注3) 現在は栗ノ木排水機場はなく、昭和43年に完成した親松排水機場がその機能を引き継いでいる。

【参考文献】

青木滋・歌代勤・高野武男・茅原一也・長谷川正・長谷川康雄・藤田至則(1979)3新潟平野の形成とその災害をめぐって.アーバンクボタ17、特集=信濃川と新潟平野 久保田鉄工株式会社、22-43
大熊孝(1979)4信濃川治水の歴史.アーバンクボタ17、久保田鉄工株式会社、44-50
五百川清(2005)「別紙2 北陸の土木建築遺産 大河津分水(上)―越後平野発展の礎築いた悲願の大事業その風土と志を探る―」『ふるさと新潟 新潟愛郷会 講演特集第3号(平成17年度)』新潟愛郷会
岩野邦康(2009)「平成21年度企画展 蒲原平野の20世紀―水と土の近代―」新潟市歴史博物館
岩野邦康(2012)「平成24年度企画展 開墾の技術史―蒲原平野のたんぼとはたけ― 」新潟市歴史博物館
笠原一朗(2003)「かくして鳥屋野潟は残った―潟を守った女池農民と市民の運動―」鳥屋野潟研究会
加藤功(文責)(2007)「図説越後 新川開削 ~川の上を流れる川がある~」歴史研究グループ「若さの会」編集委員会
関川義蔵(2009)「越後平野と川」新潟県地名研究会編集委員(編)『越佐の地名第9号』新潟県地名研究会
武田広昭・太刀川静夫(1970)「福島潟における新田村落の展開」『福島潟干拓地域民俗緊急調査報告書 福島潟 -1970-』新潟県教育委員会
新潟市(編)(2009)『新・新潟歴史双書4-内野新川-』 新潟市
農業農村整備情報総合センター(編)(1997)「水と土と農・シリーズその1 “新潟”であるために・十章」農林水産省北陸農政局信濃川水系土地改良調査管理事務所・亀田郷農業水利事業建設所(2008)「芦沼略紀-亀田郷・未来への礎-」株式会社オルタナティブコミュニケーションズ
農林水産省北陸農政局 新潟県農地部 新潟県土地改良事業団体連合会